Brand New Days

 通っていた大学のホームカミングデーに行った。

 

食堂のメニューボードの横に貼ってあったメモには、“寒かったら上着を着ましょう”、“ちゃんと眠れていますか?”、“バランスよい食事をしましょう”と書かれていた。それを見て少し涙ぐんでしまった僕。

 

なぜなら、きっと自分もその一人だったから。

 

友達なんか誰もいない、知り合いもほとんどいない。そんな場所で、健康に、楽しく生活できることってどんなに大変な、どんなにラッキーなことなんだろうか。自分一人の力じゃ到底実現できない偶然が重なった状態でしかないのかもしれない。

 

たとえば朝起きて、仕事に行き、ボーイフレンドと帰りに落ち合って食事をして、ダブルベッドのある自宅に帰る。そんな自分にとっては当たり前の日々が、18歳や19歳の若者からしたらいつか手に入れたい生活そのものだったりするのかもしれない。

 

新しすぎる毎日、新しすぎる世界に順応するためには体力がいるし、ある意味での無知が必要。これからの30代は、少し違った形で、新しい世界や価値観と向き合っていけたらとっても素晴らしいことなんじゃないかと、あのころ毎日キャンパスから眺めていた西新宿のビル街を見ながら思った。

 

looking back

旅行帰りの昨日、彼が十代の頃よく観ていたというドラマを観ていた。年の近い彼がこれを観ながらいろんなことを考え、憧れ、将来に期待したであろうと容易に想像ができた。


同様に同じ頃、沢山の映画やドラマを観て、まだみない今後の人生に強い期待をしていたことを思い出した。将来の仕事、住んでいる家や街、週末の過ごし方や恋愛など。


それを軸に今できること、やらないといけないことを何となく意識をして過ごしてきた。


もちろん、思い通りに行っていることばかりではない。(”土日の午前はエッグベネディクトを出すレストランで本を読みながら過ごす” これは二十代前半はできていたのに… 残念) ただ、充実感は得られてきたと思う。

 

年々保守的になりつつある自分の考えをもう一度考え直す機会に触れ、やはり、沢山のことに期待しながら”look forward”して生きる自分でありたいっと改めて思う。


あと、自分の中にしまい込んでいるものを上手に出せるように。

 

 

 

Open Up

誰かと親密になるということに怖さがある。

 

自分をさらけ出して、慣れと倦怠が始まる感じが怖い。それを愛だという人もいる。着込んだ服からしわが取れなくなるように、だんだんと汚れていくのを見るのがとてもつらい。

 

人間関係がブツンと切れる音を聞いたことがある。それはとても僕にはショックだった。どうしたらそんな音を聞かなくてよいのかを考えて自分の心に何重にも乾いた膜を張るようになった。

 

落ち込んで立ち直るサイクルを短縮させるために、落ち込まなくていいプロセスを編み出す。そういうことがとてもうまくなっていった。

 

心を開いて、という歌が好きと言われて何度も聴いているけれど、まだ心を開けてない自分がいるんだろうか。そしてそれはこれからの人生で僕が取り組んでいくことなんだなと思う。誰かと真剣に話すと自分が見えてくる。自分の気づいていなかったことに、気づく。

 

それが付き合うということなんだと思うし、親密になるということなんだと思う。

 

昨日の出来事


同僚と何気ない会話をした。

週末に行った九州の話が話題になり、運転はどうだったっと聞かれ、何年ぶりにZARDの曲を聴いたら頭から離れなくて、自宅に帰ってからも聴いていたっと答えた。

 


曲のタイトルが以前彼に渡したカードに書いたことだったので、彼に対しての願望だったからなんだろうなっと思っていた。

 


偶然同じチームで仕事をすることになり、この5カ月毎日8時間近くを共に過ごしてきた同僚。その彼女にこの曲のタイトルを伝えたところ、

“無理してるからね…”っと一言。

“ん?どういう意味ですか?”っと聞くと、

“これだけ毎日一緒に過ごしているとね、根底にあるシャイな性格だったりがどんなに社交的に振る舞っていても見えてくるし、素直さを隠そうとしているのも見てわかる”っと。

 


彼に渡したカードは、自分自身にも向けた願望だったのかなっと、はっとした。

 


もうすこし心を開くことにしようっと思わせてくれる出来事だった。

Hand

 いままで、旅行に行くのは、勝手を知っている場所で、決まったレストランで決まったものを食べて、自分のコントロールの利く範囲で気分転換をするためだった。でも、今回、好きな人と出掛けたのは、僕の全く知らない、見たことのない、そして彼の大好きな場所。

 

 そして、僕も大好きになった。どうして今まで来なかったんだろう、きっと、コントロールできるものの中にいるほうが楽だと思っていたから。海のなかで手を伸ばしたら彼がいて、ああ、すごく安心だ、と溶けるような気持ちがした。

 

 数年間味わったことのない気持ちになって、ずっと負けないように生きてきた自分に気づいた。泳いでいると肩こりがなくなって、脚に筋肉痛が来る。そんな当たり前のことも、知らなかった。

 

 コントロールできないものに身を置くことも、その時自分がどんな気持ちになるのかも、ずっと新しい感情が新陳代謝高く入れ替わっているような人生にしたいと思った。そして、彼と、一緒にそれを体験したいと思った。

identity or?

何度も違うタイトルでブログを更新しようとしたが、これが一番書きたいっと思った、もちろんタイミングを含めて。


自分とはなんなのか、これは15歳ぐらいからずっと持ち続けているテーマ。何度も自分を他の誰かとassociateすることの難しさに辛くなることがあった。 環境、出会った人、価値観、好みなど様々なfactorが今のidentityを作っていて、特に意思疎通の手法には明らかに出てきてしまう。


若い頃はその土地土地の表現の仕方や、文章設計をスポンジのように積極的に取り入れてきた。おそらく自分のidentityをマッチさせ、同化するもしくはblendしたいっと思ってのことであろう。寛容的な性格なのか若かったのか、比較的容易にできていたと思う。


ミックスジュースのように出来上がった表現や会話のflow、それに対する相手へのexpectationが時に、意図しない形でdeliverされることを改めて学んだ。日本語での表現に不十分な自分を常に受け入れてくれる大切な人だからなのか、勝手な思い込みと甘えで会話をしていたことを後悔しつつ、今後の関係に生かしていきたいと思う。


同時に、受け入れてくれる彼や友人には改めて感謝したいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10 Years

人を育てるというのは難しい。みんなそういうけど、やはりそうだ。

 

特に難しいのは、“見込みがなさそうな人”を育てなければいけないとき。しかし、どうだろう。優秀で、自走できる人ばかりの組織とは限らないし、たとえそうだとしても病気やけがでチームから突然抜けることだってある。そうなったとき、“うまくいっている”場所でしか働けない、力が発揮できない人では困る。自分自身が特にそう。

 

慣れて、うまくいっているかのように見える自分だって、知らないことや未経験のことはたくさんある。外部要因だってある。うまくいくとは限らない。自信なんかこれっぽっちもなかったのに、いつしか強気な言葉を話すようになる。

 

ビジネスの場は戦場だというけれど、助けて、助けられて、やっていくしかない。

 

誰かを育てる立場になったとき、それは過去の自分を作ってくれた人への恩返しと、自分がしてもらえなかったけれどしてもらいたかったこと、かけてほしかった言葉を、その場にいなかった別の誰かに与えるという意味もあることを知った。

 

働き始めてもうすぐ丸10年。自分が社会に出ている意味がこういうときにぐっとズームアップされて、クリアに見えてくるのが最近とても面白かったりする。

 

Written by M